三月は、「卒園」や「卒業」、そして、来月の四月は、「入園」や「入学」、「入社」の時期です。不安や期待など、さまざまな思いを抱えながら、この時期を過ごされていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 私自身、思い起こせば不安や期待を抱(かか)えながら、この時期を過ごしていました。 そして、進学したらこんなことをしたい、一年後にはこんな自分になっていたい等と想像をしていた事が思い出されます。 先日、ある会合で「五年後の自分はどうなっていると思いますか?どうなっていたいですか?」という質問を受けました。私は「最近、五年後の自分どころか、一年後の自分がどうなっているのかなどと考えたことなどなかったなぁ・・・。五年後の自分は、どうなっているのだろうか?」と漠然と考えました。 その質問に対して、ある人は「人の気持ちが分(わ)かる人間になりたい。」、ある人は「起業をしたい」いなどと答えられました。そのうち、一人の方が「私は数年前にガンを患いました。今も定期的に病院に通っています。だから、五年後に生きているかどうかは分かりません。今日という日を精一杯生きられたら良いと思います。」とおっしゃいました。 私は、五年後、「生きている」という前提で物事を考えました。でも、五年後、生きていると言えるのでしょうか?一年後は?明日は?一秒後は?、生きていると言えるのでしょうか? 親鸞聖人が、九歳の春に出家されたときの伝承として次のようなものがあります。 親鸞聖人が出家を申し出られた時刻が遅かったため、出家先の人から、「明日、出直してきては如何ですか?」と告げられたことに対して、親鸞聖人は、「明日も桜の花が咲いていると思うのは、どうなのでしょうか?夜、嵐がきたら一瞬にして、櫻の花は散ってしまいますよ。私の存在もそんなものではないのでしょうか?」ということを告げるために、「明日ありとおもうこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を詠まれたといわれています。 嵐が来たら、風が吹けば、桜の花は散ってしまいます。それと同じように、人のいのちも思うようにはならないでしょう。「生きている」と言うより「生かされている」のです。 僧侶として、仏事の場に何度か身をおいているにもかかわらず、そうしたことを他人事としていた自分に気がつかされた会合でした。
|