先日何気なく同朋新聞を読んでいた時のことです。 不意に善知識という言葉が目に留まりました。恥ずかしながら私にとってはこれまでの人生の中でやや聞きなれない言葉でありました。漢字で書きますと、善悪の善に知識という言葉を付けた形になるのですが、その人との出会いによって自分が真実に目覚めることができた、という場合の大切な人を指すことだそうです。 真宗の教えを聞くべき私にとって大切な人。少しの間考えてみましたが、あいにく頭の中には浮かび上がりませんでした。 学生時代を振り返ってみますと、私はどちらかと言えば比較的時間に余裕のある生活を送っていたと思います。にもかかわらず中々学習には意欲が出ずに、いつの間にか学生時代が過ぎていってしまったなあということが思い出されます。 しかしより深く考えてみますと、十代の頃お寺に背を向けるような、逃げるような思いでいた自分をお寺の方へ振り向かせて頂けた人、過去を見て前をあまり見ようとしない生き方をしていた私を前向きにいかなければならないと教えて頂けた人、時として厳しい声で私を叱って頂けた人。これらの他にも思い浮かぶことは沢山あります。 また善知識には、師の方から教えてやろうと近づいてくるのではなく、私たちの方が自らの愚かさに気づいた時や本当のことを知りたいと願った時、師の方から私たちの前に現れるのだ、という意味もあるそうです。つまり先程挙げた事柄以外にも今までの私自身が気がつけていない大きな出会いや出来事があったということです。浄土和讃に次の様な和讃がございます。 善知識にあうことも おしうることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなおかたし 平生何気なく生きておりますと中々感じることがありませんが、今私が存在するのは、膨大な時間の流れの中で様々なご縁があり今という時を生かさせて頂いているわけであります。これから先の人生、どのようなことが起こるか想像はつきませんが、限りのあるいのちを精一杯に生かさせて頂くためにも今回この善知識、私にとっての大きな出会い、出来事に目を向け大切にしていく。私にとってよきご縁であったように思います。
|