真宗門徒にとって報恩講は、最も大切な仏事としてお勤めされます。各家庭では「お取越し」としてお勤めされますが、最近ではその意義が見失われつつあるように感じます。仏様の説法を聞く「仏事」ではなく、毎年の形式だけで「世事」となってしまっているのではないでしょうか。お勤めする僧侶も、参詣するご門徒も、共に教えを聞く機縁となっているかどうか、今一度確かめる必要があるようです。
私がお参りさせて頂いているある地域のご門徒宅では、家族だけでなく近所の方や親戚の方が各家庭のお取越しにお参りされます。参詣者は座敷に上がると最初に合掌して、まず御本尊や親鸞聖人にご挨拶します。それが終わって初めて僧侶やその家の主人に挨拶をするのです。僧侶も家の主人もその人の合掌礼拝が済むまでは、何も挨拶しないのです。何でもないようなことですが、普段私たちは仏様そっちのけで「世事」を優先して翻弄しているのではないでしょうか。その地域では理屈ではなく生活として「お敬い」が根付いているように感じます。
ある先生からお聞きした言葉に、「『けれども』の使い方を考える」というのがあります。私たちは、仏法を聞きながら世間を生きています。どちらを優先するかで「けれども」のつく方が変わります。
世間を優先して生きるならば「仏法ではそうは言うけれども、世間ではそれは通らん」となります。仏法に立って生きるならば「世間ではそうは言うけれども、仏法ではそれは通らん」となるのではないでしょうか。
世間的な価値観だけで生きようとするならば、人間は人間としての業に疲れ果て、空しく過ぎていくほかありません。仏法において自分が破られていくような生き方によって、自分の業を果たして、堂々と生きていく道が開かれるのです。
ご門徒の素朴な「お敬い」の姿に、改めて自分自身の生活を問いただされる思いがします。
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