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真宗大谷派大垣別院開闡寺は真宗大谷派(東本願寺)を本山とする別院です。

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 テレホン法話 2022年  

 № 放送日 タイトル 法 話
685 2022年1月16日~ 生死大海の船 第5組 速入寺 平塚維人
 今世界中がコロナという未知の感染病に驚愕し、感染対策を優先するべきか経済を優先するべきか揺れ動いています。私の見解では、政治権力と経済にプラスになることは自粛せず、プラスにならないことは自粛するという判断にしか感じられないのですが。いずれにせよ今まさに時代の大波の到来です。多くの人が、不安と不信不満を抱きながら右往左往しています。「背に腹は代えられぬ。なんとか助かりたい。」その想いから、なぜマスクを着用しないのですか?なぜワクチン接種しないのですか?この時世に出歩くとは何事か。と常識という大義名分を振りかざし、私たちの物差しが善悪を分別し、新たな制約と排除を繰り返しています。ふと我に返ると、なんという私であったか、罪障(ざいしょう)おもしと我が心が(さいな)まれるわけです。
 『大谷派勤行集』赤本の一一6頁の御和讃に親鸞聖人は
  無明長夜(むみょうじょうや)灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 
  生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪障おもしとなげかざれ
                       (『真宗聖典』503頁)
と示されておられます。暗中模索で終わりの見えない暗闇の最中にあっても、私を照らしてくださる大いなる仏の慈悲と智慧。無分別である仏眼に目覚める事かなわぬ。照らされぬ。と悲しむことなし。仏の慈悲は、生死の苦しみの大海に沈む私たちを救い上げ渡してくださる(ふね)(いかだ)なのです。(さわ)り大きく悪業(あくごう)深く、この苦しみから離れることが出来ないと嘆くことは無い。と示して下さっています。 
 西洋哲学者のキルケゴールもまた、人生を船で例えています。「人生とは、必ず沈む穴の空いた船に乗っていて、その穴から入ってくる水を()き出しているようなものだ。」と残しています。これを展開しますと、船は与えられている環境を、穴の大きさは迫る苦しみの大きさを、掻き出す作業は苦を遠ざけようとする私たちの生業(なりわい)を表わしていると思います。私の乗っている船の大きさはどうでしょうか? 家族サイズの舟か地球サイズの船か。またはキリスト教聖書のノアの箱舟のような信じる者のみの舟でしょうか?与えられた船室と役割。操舵室、客室、倉庫室、機関室、どうでしょうか。船に空いた穴の大きさはどうでしょうか?こぶし程度でしょうか?マンホール程度の穴でしょうか?それに伴い、水没する速さはどうでしょうか?その水を掻き出す為に、私に与えられた器と力量はどうでしょうか?小さじでしょうか?バケツでしょうか?どこまで浸水したら掻き出し始めるのでしょうか?(くるぶし)位でしょうか?膝腰でしょうか?はたまた胸までか首までか。これすべて、各々様々です。置かれた環境も思いや考えも力量も違いますね。誰もがバラバラなのですね。それぞれが自身の物差しで善し悪しを分別しているのです。
 そんな私たちに、仏様は姿こそ見えぬとも常にはたらき続けて、善悪の価値づけを超えた世界がある事を教えて下さいます。バラバラで一緒。皆違って皆良い。そして倶会一処(くえいっしょ)。仏様の(まなこ)で観ますと、我ら凡夫は区別なく、皆一緒なのです。誰もが尊い命をいただく存在なのです。私達が日々出来る事。それは阿弥陀仏を依りどころとして、凡夫の身のまま、自身が与えられた環境を受け止め、向かい合い、苦楽も全て引き受けて往く生活をすることだと思うわけです。今、与えられ生きているこの場所そのものが、私を育てる道場と成るわけですね。


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