テレホン法話(0584-78-3452)TELEPHONE SERMON
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放送日 |
タイトル |
法 話 |
660 |
2021年1月1日〜 |
年頭のご挨拶 |
大垣別院輪番 譽田和人 |
新しい年を迎え、大垣教区の皆さまにはご清栄のこととお慶び申しあげます。旧年中は教区・別院の運営護持に深いご理解と温かいご協力を賜り厚く御礼申しあげます。
昨年一月から全世界的に猛威を振るう新型コロナウイルス感染症は、新年を迎えても終息の目途が見えません。
蓮如上人以来伝統されてきた寄合い談合の形式が「三密」回避のために封じられ、これまで当たり前のように日常していた、仏法聴聞や法座相続が袋小路に追いやられた感がいたします。人と人とが直接まみえることが制限される中で、新たな方法に迫られる時代を迎えたといえるでしょう。
厳しい状況の中で悲観的に考えるばかりではなく、念仏者の基本に立ち返ることが改めて思われます。
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり (『真宗聖典』478頁)
名号を称えることと憶念することは別々ではありません。今日のような逆境のなかでこそ、情報に耳をそばだてつつ憶念し続けることは大事なことです。その基本は、どこまでも名号を称えることだと宗祖は示してくれているように思います。
山伏弁円だった明法坊の最期の様子と、それを明教坊から聞いた親鸞聖人の姿が御消息にあります。親鸞聖人に面会の為に、上洛の途中に病を得た明法坊は、念仏のいわれを聖人に尋ねたいが、戻っても死ぬ身、訪ねても死ぬ身であると自覚して弥陀の名号を称える身として、旅の空に生涯を終えたのでありました。念仏して何者かになるのではない。念仏する身として生涯を生き切ったのでしょう。そのことに聖人は「うれしくそうろう」と喜んだのです。
私たちはコロナから身を守っていますが、どのような身として生き切ろうとしているのでしょうか。寄らずとも憶念する一年を過ごすことができるのか。念頭に覚悟が問われております。 |