テレホン法話(0584-78-3452)TELEPHONE SERMON
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放送日 |
タイトル |
法 話 |
663 |
2021年2月16日〜 |
不安と安心 |
第7組 西照寺 吉田法照 |
現代とは、「不安の時代」だと言えるかと思います。誰もが前の見えない暗闇の中を歩いていると言ってもよいでしょう。
私たちはなぜ不安になるのか。それは、どうしていいかわからないからです。進むべき先が見えないと、どうしても不安になります。しかしそれは、自分の都合の良いようにしたいという裏返しでもあります。
親鸞聖人は『一念多念文意』において、
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。
(『真宗聖典』545頁)
と言われます。私たちの中には「貪欲・瞋恚・愚痴」と言われるような煩悩が満ちていて、それこそ死ぬまで消えないのだと教えてくださっています。そしてその煩悩の根本を「無明」とおさえています。無明とは、「真実が見えていない」という意味で、仏教では私たちの煩悩によって、真実を見ることのできない迷いの姿を「無明」と表現します。
親鸞聖人が「無碍の光明は無明の闇を破する」(『真宗聖典』149頁)と言われるように、この無明の闇に光を当ててきたのが仏教です。しかし、暗闇を破ると言っても、阿弥陀如来を信じたら自分の都合の悪いことがきれいさっぱり無くなり、明るくなるということではありません。阿弥陀如来の智慧の光に照らされてはじめて、私たちは自分が迷っている(煩悩に満ち溢れている)ということに気づきます。つまり、暗闇が照らされてはじめて、自分が暗闇に立っていたことを知らされる。泥臭い自分自身が見えてくるのです。この気づきを「功徳」と言います。
聖人は、この「煩悩」と「功徳」の関係を「氷」と「水」の関係で表現されます。
罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし(『真宗聖典』493頁)
氷が無くなって水が得られるのではないのです。氷がそのまま水に変わります。この譬えで言えば、不安が消えて安心があるのではなく、不安なままで安心できる、と言うことができると思います。仏法を聞くことによって、この不安な世の中を歩んでいける足掛かりを得るのだと私は了解しています。 |