№ | 放送日 | タイトル | 法 話 |
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701 | 2022年9月16日~ | 信仰とためらい | 第11組 本龍寺 土山泰弘 |
今回は「ためらい」という単語について感じることをお話ししたいと思います。ためらいというと、一般的には煮え切らない、はっきりしないといったネガティブな印象をもたれる方が多数であると思います。実際に単語の意味を調べてみても、「あれこれ考えて迷う」「決心がつかずにぐずぐずする」など肯定的とは言えません。 しかし私は、このためらいという単語を信仰という観点から見たとき決してネガティブには感じていません。なぜなら、この「ためらい」という行為は、私の考えや思いが正しいと歩みを進めるのではなく、一旦立ち止まって「本当に私の心や考えは正しいのか」と自らを問い、疑うという行為であると思うからです。また、厳密に言うと「ためらい」という行為に対して、一種の覚悟を感じるといった方がいいのかもしれません。この覚悟とは、『教行信証(総序)』に とあるように、私の思いや考えは自分勝手なものになっていないか、絶対に正しいと私に固執していないかと、仏様の教えの眼・視点に聞いていき、我が身に思いを馳せ続けるという覚悟です。逆にためらいが無いことに、私はいささかの恐怖を感じます。自分の信じた道なり信念なりを疑わず進み続けるということに対して、どこか思考を放棄しているような違和感が私の中にあるのです。仮に「自分はもうブレない」としてしまうと、「もうその先に発見はありませんね」と意地の悪いことを思ってしまいます。 改めて親鸞聖人について考えてみると、聖人はためらい尽くして生涯を終えられた方だなぁと思うのです。比叡山でためらい続けたのはもちろん、法然上人と出遇ってからもためらい続けたはずです。そうでなければ亡くなる直前まで、自身の著書『教行信証』の改訂は重ねられないと思うのです。 もちろん、なんでもためらえばいいという話でもありません。しかし、何も考えず、ただ仏法を信じることは思考を放棄しているようなものであり、仏法から我が身を疑い、問うていくことが大切であるということをお話ししたかった次第です。 |
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