| № | 放送日 | タイトル | 法 話 |
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| 779 | 2025年12月16日~ | 自分本位な私 | 第11組 蓮明寺 大谷裕樹 |
| とある門徒さんからの質問で印象に残っている言葉があります。それは、「真宗において「救われる」というが、今の若者には、いつ自分が救われるかが伝わっていない。だから、若者たちに浄土真宗の教えが広まらないんじゃないの?」という内容でした。この質問を聞き、私自身も救われるというのはいつだろうかと改めて疑問に思いました。 真宗において救われることを往生と言います。この往生は「即得往生」とも言われ、生きているこの身のまま、浄土に生まれ、救われるという教えのことです。つまり、いつ救われるのかと言われれば、阿弥陀仏は既に私たちを救ってくださっているということになります。 しかし、問題は知識として頭だけで知っていても、「私が救われている」という実感がわかない自分自身の問題が残ります。その心はどこかで教えを疑う気持ちを持っていたり、一生懸命お念仏すれば、それに見合った見返りを求める気持ちが表れているのです。 では、そんな私はどのようにして救われる身になったと実感できるのでしょうか。それは、仏法を聴聞するということです。仏法を聞く中で、自分自身が悩んできたことや苦しんできた思いと合致することがあります。その時に、仏さんの話というのは、他人事ではなく、私の為のお話しだったと実感できるのです。 つまり、真宗における救いとは、阿弥陀仏は常に私たちを見捨てず、救い続けてくださっています。しかし、それに気がつけない私は、仏法を聞くことで実感を得るということです。 このようにお話しをすると、仏さんを忘れたらいけないと思われるかもしれません。しかし、私も月参りで門徒さんのご自宅に伺った際、お経を称えていても、頭の中では「次の門徒さんのお宅に時間通りに到着できるのかな」や「今日の晩ご飯はなんだろう」など違う事を考えてしまうのです。心のどこかで仏法より優先しているものを作ってしまっているのです。 しかし、このような邪な気持ちを持っている私を阿弥陀様は見抜き、そんな私が仏法に出遇う機会をちゃんと作ってくださいます。それが法事や月参りといった仏事に出遇う意味です。 仏を忘れ、他ごとをすぐ優先する私を見捨てない仏を讃嘆(さんたん)し、情けない私の姿は悲歎(ひたん)し続ける。これが真宗における救いの道の歩みではないでしょうか。 阿弥陀仏の慈悲深さと自分本位な私がいる事を常に忘れてはいけません。そして、私自身は若者を含め多くの方に浄土真宗を伝えられるよう精進しなければいけないと感じました。 |
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